昨日は著者の中村うさぎさんをお招きして行なわれたこちら、”狂人失格”についての読書会。本はめちゃくちゃおもしろいのですが、自分の見たくない部分と向き合わざるを得ない心境にもなり、読みながら、ズキズキ、時折、グサッとくる内容でした。
うさぎさんがまず、”ネットキティ”と呼ばれるネット上の狂人について書かれたきっかけからお話されました。正常と狂気の分け方ってどうなのか、どこからどこまでが”正常”でどこからが”狂気”なのか、そのグレーゾーンに迫るため近寄られたのが本書にでてくる”優花ひらり”さん。交流のなか、うさぎさんが気づかれた優花さんとの決定的な違いは自意識の持ち方。客観性を持つうさぎさんと、客観性を全く持たない優花さん。客観性を持つことが果たして幸せなのか?と、うさぎさんは問う。
アダムとイブは知恵の実を食べたことにより、客観性を持ち、エデンの園を追放され、不幸になってしまったのと同じく、人間も子供の頃はエデンの園に住んでいるけど、成長し、自我に目覚め、思春期を過ぎ、大人になるにつれて知恵の実が意識に浸透し、他人の目を気にしながら生きていくことになる。うさぎさん愚鈍である幸福と明晰である不幸を選ぶなら、明晰である不幸を選ぶとおっしゃってました。自分を映し出す鏡に囲まれて生きる今は幸せでないけど、客観性を1度持ってしまうとまたエデンの園には戻る気にはなれないと。
うさぎさんは、何が幸せなのか?と考えると、”自分が幸せと思うならそれが幸せなんだよ。”という意見が出てくるけど、それは欺瞞じゃないか、とおっしゃってました。
私もエデンの園に行きたいか、と考えると、行きたくないし、行けない。でも自分自身を鏡で囲み過ぎると身動きが取れなくなるし、ある程度、この本に登場する優花さん的な要素もあった方が生きやすい気がします。明晰さ70%、愚鈍さ30%くらいのバランスで。
優花さんもたまたまこの時代、この国に生まれたが故、狂人扱いされてますが、時や場所が変わればアイドル扱いされるかもしれない。一番醜いのは劣っている人を見て優越感に浸る人の心。その根源はその人のコンプレックスであり、私も含め、皆、コンプレックスを心に抱いている。ということも考えさせられました。
うさぎさんは過激な言葉を使われるからか、そのイメージを持たれがちですが、とても謙虚に自己分析し、頭脳明晰で、どんな質問にも真摯に答えられる姿が印象的なとても素敵な方でした。